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哲学に見取り図なし

 投稿者:ラーフラメール  投稿日:2007年12月28日(金)07時55分11秒
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  哲学というものを少しでもかじったことのある人たちはもうお気づきのことかもしれませんけれども、哲学の(とりわけ分かり易い)見取り図などというものは、ありません。それは、これまでもそうだったよう、これからも出て来ることがないものとして、受け入れなければならないことなのです。いわゆる哲学史が哲学の見取り図的な役割をはたしていると、だいたいの人たちはそう感じているかもしれないのですが、あるのは個別かつ自己勝手な(無人称的)哲学が、ただ玉石混交してあるだけでしかありません。それでも、哲学問題はどこかでつながっているからこそ、哲学を歴史的に見て取ることができるのだと、もしお考えの人がいるならば、それはすべて偶然のなしえるところでしかなかったとしておくより他ありません。なぜかたまたま、哲学問題が歴史的変遷を遂げて我々の前に表れていた、それだけでしかないのです。もちろん、古い哲学から(形を変えて)新しい哲学へと問題が受け継がれるということもないとまでは言いませんが、やはりそれは偶然のなしうるところの問題でしかないのです。デカルトからスピノザへ、カントからヘーゲルへと、そうしたつながりは一見すると、上手く問題が連続的に関連を持ちつつ進行しているように見えてしまうのですが、それができるのも、彼ら先人たちの仕事の内部にあるある種の欠落点を自己流に解釈し直した結果としてでなければ、古い哲学とはまるで役に立つことはないでしょうし、これより他になすすべがないからこそ、彼ら新しき哲学者たちは哲学者であった先人たちの仕事をどうしても批判せざるを得なくなるといった具合に、その立場は追い込まれざるを得なくなるとなるのです。

哲学の入門書を幾つ読みあさったとしても、哲学するところまで到達されることはありません。哲学は私の中にある何かに触れることによる感情的な揺さぶりから生じるものなので、まぁ感性が豊かな人は哲学者に向いているとは思いますけれども、それだけでは足りず、それを言葉にして精緻に語りうることができなければ、なりません。特に重要なことは、自分が認めた哲学者が考えていた問題の土俵にあがることであなたの哲学の限界が示されてしまうというところにこそ、哲学の本当の意味での恐ろしさがあるということです。土俵にあがったら最期です。決して、そこから抜け出せはできません。したがって、土俵際でどれだけ踏ん張れるのかが、哲学的には重要なのです。

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哲学のレース

 投稿者:ラーフラメール  投稿日:2007年 8月11日(土)00時26分24秒
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  哲学は、何度も繰り返し言いますが、学問ではありませんので、一から学ぶところなどありませんし、例えばデカルトやスピノザの著作に書かれていることの理解を通して究められるものでも、もちろんありません。したがって、哲学書から哲学するとしても、それを下敷きにして自己の哲学というものを構築していくといったあり方ではなく、そんなのとは全くかけ離れたやり方でしか、哲学とはしえないものなのです。哲学書とは哲学するための下敷きや土台となるべきものではなく、長き眠りについていたあるものを呼び起こすことにこそあるはずなのです。だからこそ、人間がなぜ哲学などというものへと誘われてしまうのは、目覚める必要があるからこそ、つまりは最高の自覚を喚起ならしめることにこそ、哲学は人間と関わりを持つのです。
そして哲学は、デカルトやスピノザの哲学を比較してどちらかに軍配を上げるというような、思想の現実的反映からみた優劣とは関係なく、ただ哲学としてのみありえるのです。これが哲学の最大の魅力でもあり、かつ恐ろしさでもあるのです。なぜなら、哲学には優劣を決めうる客観的基準はないのですから。目指すべきものが分からないし明らかではないところに、哲学の凄さと恐ろしさがあるということです。哲学は、分からないこと、明らかではない、明らかにできないことを扱い、どうしてそれは明らかにできはしないのか、現実的には明らかなことなのにどうしてそれは分からないものとしてありえているのか、あり続けているのか、を巡った探求なのです。こんなものは検証できないのです。検証しようがないのです。
相互の哲学的問題に対する対処の仕方は、別の哲学的問題を立ててそこからまた再び開始し、問題を問題化して繰り返していくうちでしかおさまりません。哲学は対概念をもたないものです。哲学と思想と宗教とは、連関しているように見えても、どれもが異なるものです。哲学にはさしたる目的も対象もありませんから、どこからでも開始できますし、してもよいのです。それが、他人が言わんとするどころの哲学とは食い違っていたとしても、哲学はつねに己にある問題を顕在化し認めることから生じてきますので、他人の哲学などは、ほぼどうでもよいものと言ってもよいでしょう。あなたたちは哲学者です。哲学に優劣を決めうる客観的基準はありません。誰しもが哲学をしてもよく、それが現実的には間違いなのかどうかを気にする必要もありません。

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哲学は学問ではありません

 投稿者:ラーフラメール  投稿日:2007年 7月26日(木)04時16分12秒
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  哲学は学問ではなく、それなので、対象となるべきものをはじめから哲学はもたずに、哲学は成立ししえているのです。時間や記憶や生や死は、哲学における哲学的問題の中核に位置するものではありますけど、それが哲学することのすべてではありませんし、なりえもしませんでしょう。哲学はどこまでも入門できるところの門前までへと探求することにこそあるからなのです。したがって、矛盾するようなことを言いますが、哲学は入門などできはしません。哲学を探求することにこそ哲学の真価は問われなければならないのですから。哲学と言われる一般的な学問を成立可能ならしめたのは、プラトンやアリストテレスが創設したアカデメイアへと求めることができますけど、これは哲学の学校化です。哲学を学ぶことをするための施設に過ぎません。哲学者であるには、人はただ生きていさへすればよいのですから、哲学を学んだからといって「これで私は哲学者」なのだという証明にはなりませんし、もちろん哲学は、デカルトやヘーゲルが考えていたことを理解し継承していくことでもないのです。私の哲学はデカルトやヘーゲルの思想的呪縛からは自由なところにありますし、自由でなければなりません。哲学的授与はある哲学の継承をめぐった一つの内輪揉めでしかなく、それだからこそ哲学は、真に継承されることなく新奇的発見を繰り返しながら膨張し精緻な発展を遂げられるとなるのです。もし哲学が学問領域の一つでしかないのならば、このようなダイナミックな展開はされることはありませんし、哲学よりも学問が位置的優位性を保つとなれば、つまりは哲学とはどこまでもその力が発揮されうるところに制限が加えられてしかるべきとなるはずです。しかし現実的に鑑みても、そんなことは起こらなかったし、おそらくありえはしないでしょう。哲学から学問より優位に位置するという内的精神の自由性を取り除いてしまうと、哲学はただの思想の鑑賞物となりはててしまうことになり、それはおそらく哲学とは到底呼べない代物となります。  

哲学へと向かうこと

 投稿者:ラーフラメール  投稿日:2007年 7月16日(月)01時57分1秒
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  前回で、哲学者としての典型をソクラテスに求めて、残酷だと私は言い放ちました。哲学は何よりも自分でするものですし、そして何度も言いますが、哲学者でないものなど誰一人としていないのですから、われわれが哲学することを拒むような外的要因など一つとしてなく、もし拒まれてもそれで断念しなくてもよいのです。哲学者は哲学を拠り所にして活動しますが、それは哲学するより他にないからでもあります。哲学者から哲学を取り上げたら、何も残らない、そんな寄る辺ないところがあるから、哲学者は哲学にしがみつくのも仕方ないと言えるのです。事実、ソクラテスから哲学を取り上げたら、たぶんロクデナシでしかなかったでしょう。ソクラテスは都市国家ギリシアの公職にかつてはつきましたが、後に一切公職にはつきませんでした。たぶんその頃のギリシアでは現在のような哲学書の出版もさほどなかったと思うので、ソクラテスは哲学書を窓口に哲学者になったわけではありません。耳学問や問答学問からソクラテスはその知識を蓄えて哲学者としての素養を磨いたのだと思われます。そして、いつ頃からか分かりませんが、ソクラテスは哲学をしだしました。ソクラテスを哲学へと向かわせたのは一体どのような理由からかは分かりません。とりあえず、私に分かることは、プラトンの著作から読み取れる範囲でのもの、とりわけ私は『パイドン』と『メノン』を高く評価していますので、これらの著作からのソクラテスとは、真理へのたゆまぬ愛のために哲学をしたと、そうなります。いつから哲学をソクラテスが開始したのか、それは以上でも述べたように私には分かりませんが、少なくともソクラテスは自身が哲学というものを開始したのだという信念に満ちて、哲学の道を歩むことを決意したのです。ソクラテスを西洋哲学の礎としての哲学者という見方について私は争うつもりはありません。ただ私に言えることは、哲学をはじめようとした哲学者がソクラテスだったこと、それのみでしかないのです。しかし、哲学はソクラテスがはじめようとしたものとは、ずいぶんと現在はかけ離れた状況へと置かれています。それは、プラトンとアリストテレスによる西洋哲学を覆う呪縛があるからだと言えます。つまりは哲学の学校化です。哲学は学問になってしまったのです。ソクラテスが考えもしなかったかたちで現在の哲学は学問として成立していることへの違和感が私にはあるのです。
まあそれについてはおいおい述べていきます。

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哲学者の残酷さと冷徹さ

 投稿者:ラーフラメール  投稿日:2007年 7月14日(土)18時15分50秒
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  前回までで、とりあえず哲学への入門の道筋はついたかと思われますので、今回は哲学者とはいかなるものなのかについてのみ、扱っていきます。

哲学者で思い浮かぶ名前の筆頭に挙げられるのは、おそらくソクラテスになるでしょう。ソクラテスの人生について、私は特に関心がないのでよく分かりませんが、プラトンの著作にみるところのソクラテスは、何というか残酷な印象があります。ソクラテスは残酷だということに、意外だと思われるかもしれませんが、私にはソクラテスとは他人を自己の中へと取り込もうとする知的合一化を図っていることで、すでに残酷な人間だったのだろうとして言っているのです。ソクラテスはおそらく他人の意見(意志)というものを最終的には否定したと感じられます。少なくとも、他人の意見を尊重しつつもそれをどこまでも自己の問題の渦中へと位置付けることをやめなかったというところに、哲学者としてのソクラテスがあるのだと思われるのです。例えば『ソクラテスの弁明』において、ソクラテスはどこまでも自己を正当なものとして不当な裁判という仕打ちを反駁し批判しました。私は正しいのだ、という正当性にソクラテスは『弁明』では微塵も揺らぎがなかったのです。それなので、ソクラテスは死刑という判決を下されても平然としていました。『クリトン』『パイドン』でもソクラテスは取り乱した様子など見せませんでした。だって、自分は正しいのだから、このような不当な仕打ちを受けたとしても、それは自分の正しさを否定されたものではなく、自分の正しさがただ他人へと理解されなかったことが死刑という判決の決め手となったものだという信念が、揺るがなかったからなのです。これは恐ろしいほどの他人蔑視でもあります。自己をどこまでも正しいとして、それに疑いをもたないようになるには、他人(の意見)を軽蔑していなければできないのですから。そう考えると、ソクラテスを哲学者たらしめたのは、他人への軽蔑、他人へ向けた過酷で残酷な視点が、つまり哲学者ソクラテスを支えたのだというように考えることができるのです。

哲学者はどこか他人を他人と思っていないところがあります。私たちも哲学者なので、そうしたところは併せ持っています。他人の意見を尊重すれども軽蔑していること、これが哲学者の資質でもあり、それは私たち哲学者たちにも言えるとなること、それが哲学の残酷さでもあり、なおかつ暖かさを感じられる源泉にもなりえているのです。哲学者による哲学的視点は非常に冷え切っています。それなので、どこか温もりを求めてしまいがちになります。ですけど、ソクラテスはどこまでも冷淡でした。自分に対しても心底から冷淡でした。なぜなら、自分の正しさが他人には決して理解されないことを、その理解されなさこそが本質的なものだということを、最終的には知っていたからです。ソクラテスは毒杯を呷り死にました。死が訪れる最後までも、自分は正しい、という信念は揺らぎませんでした。この自己普遍的で他人不拡大的なものを実践して、現実的に死により実践したことが、ソクラテスの哲学者としての偉大さであり、そして恐ろしさでもあるのです。

疑いようのないほど正しいものがあるのだ、ということを、対象と対象とを比較し検証せずとも、ただそれでいて正しいのだとしえることにこそ、ソクラテスの哲学があり、それはやはりと言うべきか、語られてはならないし、語ることをはじめから断念されていなければならないのです。ソクラテスから展開されたと思われがちな、人間の理性をめぐる学問として哲学とは、じつは最終的には語られてはならないものとして位置付けられなければならないのです。ソクラテスの言い分をまともに聞いてしまった、従順な賢学者たち(プラトンなど)が、それを見落としてしまったとしても仕方ありませんし、どうしても他人を他人として成立させる何かが欠けていたとしても、仕方ないことなのです。ソクラテスがはじめた哲学がはじめからそういうものだったからなのですから。
 

哲学入門

 投稿者:ラーフラメール  投稿日:2007年 7月13日(金)22時07分50秒
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  さて、前回にて私は「どこからでも哲学できます」と言いましたが、それでも「どこから」はじめればよいのか分からない、といった人たちもいるでしょうから、簡単な哲学への入門の窓口を提示しておくことにするとしましょうか。

最も簡単なものとしては、哲学書を読むこと、になります。哲学書に書かれていることから哲学へと誘われることは、私の経験を通してみても、ありえるものとして概ね肯定されますし、そこから哲学しても別に何ら批判されるべきことでもありませんしね。なぜなら、だいたいの哲学者は、他人が書いた哲学書から自己の哲学をしてもよいのだとしえているのですから。例えば、永井均さんや中島義道さんにしても、ウィトゲンシュタインや大森荘蔵といった「本物」の哲学者が書いた哲学書の中から、自己の哲学をしてもよいのだという後ろ盾にしているのだからです。これはそれに依存しているとか虎の威を借りているとか、そういったことを意味しているのではありません。哲学者から哲学者へと哲学をしてもよいのだという勇気を授かるという、哲学的授与のことを意味しているのです。哲学がなぜ今日まで(流行り廃れはあったとしても)存続しているのかという理由は、この哲学的授与(伝授)に求められることができます。哲学者が自己ではない哲学者が書いた哲学書から何かを見いだせるのは、このためなのです(ある意味では、卓越した技芸の伝承のようなものになるでしょう)。それなので私としては、まず手っ取り早くあなたが哲学をはじめるのには、哲学書を読むこと、これをお勧めしたいとそう感じます。それでは一体、何の(誰の)哲学書を読めばよいのか、といった疑問が出てくるでしょう。お答えします。以下のものがよいと思われます(私の経験上のものなので、偏ってはいますが……)。

野矢茂樹『哲学の謎』講談社現代新書
永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み 哲学的諸問題へのいざない』ナカニシヤ出版
プラトン『パイドン』岩波文庫
プラトン『メノン』岩波文庫
大森荘蔵『流れとよどみ 哲学断章』産業図書

まずはじめに野矢茂樹さんのものを読まれることをお勧めします。哲学する、ということの醍醐味を深く味わえますし、もしこれに書かれていることで何か引っかかるところを見いだしたなら、もうそれに越したことはありませんから。次は永井均さん、その次はプラトン、最後に大森荘蔵さんのものを読まれていくのが、私のお勧めです。
 

哲学するにはどうしたらよいのか?

 投稿者:ラーフラメール  投稿日:2007年 7月13日(金)00時38分51秒
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  哲学というものは、現在においては学問の分野の一つとして見なされていますけど、じつは哲学は学問などではありません。哲学を学問体系の中へと取り込んでしまった大半の原因は、プラトンとアリストテレスの業績に求められます(学校をつくったことです)。プラトンとアリストテレス以前の哲学者たちは、哲学というものを学ぶ場所などもたなくても哲学していたのですから、哲学とは学ばなくとも(学ぶ場所などなくとも)、どこからでもできるものですし、そしてしてもよいのです。もちろん、プラトンとアリストテレス以前と以後とでは哲学を取り巻く状況というものは変化したのですが(哲学=学問、となったこと)、それでも以前のように自由闊達な哲学的議論を、どこでしてもよく、そしてそれが許されるのが哲学という学問の大きな魅力でもあります。もしそれが許されないのであるならば、哲学とは厳密さのみを求めるだけの、硬直した頭でっかちな百科辞書派学者のみが台頭する、無味乾燥なお題目学問でしかなくなります。要するに、今まで言われてきたことのみを鵜呑みにするだけの信仰対象物としてのみが哲学となるのです。例えばこんなふうに。

デカルトの「我思う故に我あり」とは、どこまで疑ってみても疑っているこの私の存在については疑えないではないか、ということを指しているのですよ。

とか。でも、こんなのは哲学しているとは言えません。哲学とは、他の哲学者が言ったことをそのまま鵜呑みにして感心するだけの鑑賞物ではなく、何よりもそこから「哲学する」ことへと向かうためにこそ、他の哲学者の哲学的議論が自分に役立つといったあり方をしていなければならないのです。哲学は単なる体のよい知識の大安売りではありません。哲学はまず自分が問題だと感じたことからはじまり、そこで終始してしまうようなものなのです。自分が問題だと感じたことが、世間一般とは何の関わりをもたないものだったからといっても、それが哲学であるならばした方がよいし、してもよいのです。

それに、ごく自然にありふれた日常において私たちが直面する問題の中にこそ哲学的問題はつまっているので、そこから哲学してもよく、もともと哲学とは哲学書からより(そして学校で教える哲学よりも)より多くの哲学的問題へと私たちを誘う可能性は大いにあることですから、学校の哲学科へ入って哲学を学ぶことが哲学することにはならないとも言えるのです。

哲学はどこからでもできます。

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哲学とは?

 投稿者:ラーフラメール  投稿日:2007年 7月12日(木)20時21分25秒
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  過去そして現在にいたるまでの哲学者の中でも、哲学というものを定義しそれとして固定させたものは、誰一人として存じません。要するに、哲学者たちの間でも哲学についての見解は、結構いい加減というか、そう、まだ「哲学とは何か?」という根本問題について、これといった解答や解決となりえる決め手を提示しえた哲学者がいないのです。それなので、あっちこっちで哲学についての見解の相違を巡っての言い争いが絶えないというのが、現状のところです。スタンリー・キャベルという米国の哲学者は、哲学は存在するのかが哲学における根本問題だと、そんなことを言っています。たぶん彼は、自身が哲学者でありそして哲学する身でありながらも、哲学は存在するのかという疑問を抱かずにはいられなかったから、こんなことを言ったのでしょう。しかし、これに対する答えはいたって簡単です。哲学は存在します。「なぜ?」という疑問を抱かないでくださいね。なぜなら、そうした疑問を抱かない(抱けない)ところにこそ哲学は存在しているからなのです。つまり、哲学の存在とは黙示されていることのうちにてすでに成立しているのです。どうして、哲学は存在しているのに、その存在について明証してはならず黙っていなければならないのでしょうか? それは、もはやすでに明らかなものをさらに明らかにすることはないから、黙っているに他ないとなるのです。太陽と月を例にとります。太陽はただそれでいて存在し輝いています。太陽を見るのに、別の太陽をもってきてこの太陽を照らす必要性はないでしょう。しかし、月はただそれでいて輝いてはいません。月を見るには、照らす光(太陽)が必要となります。太陽を哲学だとして考えてみましょう。そうなるとこうなります。

哲学はただそれでいて存在している。したがって、明証などしてはならないし、明証したところでどうしょうもない。明証することで哲学が存在することの証明とはなりえたとしても、それは太陽を見るのに別の太陽の光を当ててこの太陽を見るのと同じくらい、無意味なことになるのです。

存在することを疑えないくらいに(存在の証明が必要とならないくらいに)、ただそれでいて存在しているものがあるということについて、スタンリー・キャベルは気がついていないというより、哲学者ならではの懐疑論の迷路に陥ったから、哲学は存在するのか?、という問いに魅了されてしまったのだと、そう私には感じられます。

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哲学です

 投稿者:ラーフラメール  投稿日:2007年 7月12日(木)01時33分33秒
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  この掲示板では、主に哲学についてのことを中心に、くどくどと述べていきたいと思います。哲学ってどんなもの? ということはさておき、ド素人でも哲学はできますし、なぜなら哲学者ではないものなど生きているものの中では誰一人としていないのですから、誰にでも分かるような哲学というものを提示し、そしてもし興味を抱かれましたら、議論に参加してくださればと私は願います。
哲学はただの遊びです。己の人生の指針となるべき理念とか、世界とはこうなっているのだとかといった、自己の存在をかけての思想的な諍いとは無縁な、本当の意味での遊びでしかありません。だから、哲学という名前に対して身構える必要性は全くなく(難しいこともときには言いますが、それは遊びの中にも難しいところがあるということからくるものです)、気楽に参加していただければ幸いです。

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 投稿者:teacup.運営  投稿日:2007年 7月 8日(日)22時27分58秒
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